だいじょうぶ日記

思いつくままつぶやく独り言ブログ。私はだいじょうぶ!

チャンスをつかむ人、つかまない人、恵まれない人、の違い。

春だから、仕事で若い人に人や縁を仲介したり、指導することが多い。


今日は違う人たちに同じことを叫ぶことが多くて、

『これ!私も自覚しなくちゃ!!』


と、自分で言いつつ、自分で思うということが何度もあった。


色々とうまくいく人、チャンスに恵まれてつかんでいる人は


・言われたら取り敢えずやってみる

・人を頼る

(良い意味で。自分でできない部分を頼る)


・こまめに報告する

(上手く行ったらお礼を、行かなかったら次のアドバイスを求める)


・可愛がられる

(明るい)


・フットワークが軽い

(ウジウジしてない)


・無駄に選択肢を増やそうとしない

(少ない選択肢から、直感で選んで行動)


・信用されやすい

(うそ、ごまかし、隠れてコソコソがない)


・可愛がられやすい


こんな人が、運がいいんだなー、と思う。


つながれた縁や人を生かして、さっさと、上手くいく。

もし、思ったより上手くいかなくてもクヨクヨしなくて

『こういう所が不満!』『もっとこういう所が、いい!なりたい!』と具体的にアドバイスを求める。

自分の希望、嫌なことをキチンと分かっているんだね。


アドバイスもきく。


『希望通りのことは、できないよ。今、つなぐことができる縁はコレだけ』

でも、受け入れる。


失敗しても、ちゃんと経験になってる。


不思議なことに、そういう人は

『タイミング』にも恵まれていって、

『希望通りがない』ことを受け入れると

『希望通り』の選択肢が増えるのだ!!


そして、それをちゃーんと、つかむ。



上手くいかない人

(チャンスがあってもつかめない、恵まれない)は


・優柔不断


・選択肢を増やすのに時間をかける

(他に良い物があるのでは?を永遠にやってる)


・結局、自分でやっても上手くいかない


・人を頼ることができない

(信用してないから)


・誰かが『ストップ』かけたら、ストップする。

(自分で自分のことを決められないのではなく、自分で行動を起こしたくない逃げ。言い訳。)


・失敗しても、やり直せることを知らない


・完璧を求めるあまり、チャンスを逃す



…っていう感じ。

チャンスを逃してばかりで、だんだん恵まれなくなる。そして、自分でウジウジ、卑屈になっていく_:(´ཀ`」 ∠):



今日に限らず最近はこういう事例が多くて、

私自身の行動も反省した。


そして、生きるエネルギーがまた出てきた。


こういうのに私が反応するのは、

『人生をハッピーに生きたい』と思ってるからなんだと再確認。


今日は久しぶりにご飯を食べて、無気力から脱却。


フットワーク軽く!

誰がなんと言おうと、我が道を進む!

失敗したっていいじゃない。またやり直せばいいだけだもんねー!!


あとね、


『自分でできることは、たかが知れている!!』


ということを、本当に思った。


ここを知ってるかどうか、大きな分かれ目

だと思った。


だから、人や縁を頼って。

『悪いな』と遠慮するより、『ありがとうございます!』と感謝して受け取って、どんどんまた幸せになっていったら良い(*゚∀゚*)


私も、縁や紹介を沢山する側をして、

その方が嬉しいとハッキリ感じた。


感謝して、どんどん幸せになってもらって。


たまに報告してくれたり、

イヤなことあったり失敗したら、また頼ってくれたら、もっと嬉しい。


応援したくなるから、何かあったらいくらでもアドバイス、仲介する。


そして、そういう人たちは、一瞬泣くかもしれないけれど、また失敗を笑って、またどんどんハッピーになっていくんだなー。


過去に見てきた人たちもそうで。


・人や縁を大切にする

・感謝する

・受け取る、生かす


あたりが、すごいな!!と思った。


『チャンス・運が欲しい』なら、

『今あるチャンス・運を生かす』方が先。


そしたら、次に恵まれていく。


お手本がいっぱいいて嬉しいー!!



私もチャンスを生かして、恵まれる人間になるぞ(´∀`*)

今の欲求。食べたい、寝たい。

この数日、3日くらいかな?


生きるエネルギーのようなものが無くなってしまっていたけれど、復活してきたようだ。


食欲がなかったのだけれど、今急激にお腹が空いてきた。


自分がダメなところを自覚

     ↓ 

生きる価値なし

(自分を責める、まではいかない感じ)

   ↓

生きてていいのかも

(存在をゆるされてる感じ)

   ↓

お腹すいた

(エネルギーが湧いてきた)←イマココ!


これはある意味デトックスぽい。


新しいもの(食べ物を含む)を入れてなかったから、空っぽに近くて。


今から身体に入れるもの(心にも)は、質が良い、自分が心地よいものを厳選していれたい気分。


水ひとつとっても、『この』ミネラルウオーターだったり、

ご飯は産地直送の、有機米だったり。


まだ量を一気に入れるほど整ってないから、

質がいいものを少しでいい。

少しずつ、リハビリに?入れていきたいなー、という感じ。


見た目は、完全に疲れている笑笑。

久しぶりに、『疲れてる?』ときかれたほど。


正直なところをいうと、

ふかふかのベッドで3日くらい寝ていたい。


でも、現実は、仕事行って家事して、子供の世話して…なんていうことを選んでやっている。


今すぐ休みとって、いけばいいんだけどな。


自分がやりたいこと『眠る』より、


仕事に穴を開けて迷惑をかけて、

家事をしないでグチャグチャの部屋にして、

子供のご飯を食べさせないで、


周りを困らせたり泣かせたりすることの方が、イヤなんだなー。


今は色々と忙しい。

最低限やらなくてはならないと思うことだけやって、四月中に休みを取って寝よう。


今欲しいのは、

好きな時に、なんの心配ごともなく、ゆったりとした気分でぐっすり寝ることができる生活だなー。

自分に価値がなくても(感じられなくても)、生きていていいですよ。

昨日は満月を見る余裕がなかったのだけれど、一昨日の帰りにきれいな、かすみががった満月を見た。

桜と、小雨と、朧月夜が

「なんとも言えない趣があるなぁ~」と、しっとりと感動。

 

スーパームーン、はっきりと大きな満月!も良いけれど。

ほわわんとした、控えめな満月も良いな~と思った。

 

あ!満月だ~と気が付いて燃やしたものは、

「邪魔な物、ゴチャゴチャしたもの。」

 

抽象的だけれど、こんな感じのもの。

 

ここ数日で、「私はいらないものを沢山もっているな~」と思って。

 

一番いらないのは、

「価値がない人間は生きる(この世に存在する)資格がない」というようなもの。

「働かざるもの食うべからず」に近いかな。

 

この思想を強く持っていたから、きっと「私には価値がある」と思っていたかったんだろうな~。

必死だったんだろうな~。

 

赤ちゃん、子供、若い(特に女の人)、というのはそれだけで価値があるけれど。

だんだん老いている、取柄がない中年の私は生きていていいのかな?

 

価値がないから、存在する資格がない。

姥捨て山行き。。

 

と、どこかで思っていて。

「私はこれができる!」みたいなのを必死でアピールしたがっていたんだろうな~と。

 

でもね、生きているというのは事実なので、

生きる価値がなくても(自分でないと感じていても)、「生きていてもいいですよ」ってことなんだろうな~。

 

と思いつつ、朝ぼんやりカフェに入ってテイクアウトのコーヒーを注文した。

 

店員のお姉さん(社会的にいうと若い年齢ではない)が、最高に素敵な笑顔で、

「いってらっしゃいませ!」と言ってくれた。

 

それがメチャクチャ嬉しくて、生きる活力みたいな?ものがわいた。

年齢関係なく、「笑顔って最高だな~」と思った。

 

それから、ある人に頼まれごとをされて、快諾した。

私が初めて頼まれたことで、力になれるのかはわからないけれど。

嬉しかった。

 

「生きていいですよ」と諭されたような気がする。

「存在することを許された」ような感じ。

少しほっとした。

 

 

コンプレックスを刺激されて何かを得るのは、もう引退。自分が好きな物だけ。

結局のところ、すべてコンプレックスから来ていたんだな~。

 

・幸せそう

・キラキラ

・お金持ち

・美(見た目)

 

みたいなの。

最近おっかけていたもの。

 

・焦って

・追われるように、切迫して~

・人に勧められて

 

「自分の感覚を無視して」手に入れたものや目指したものって、どうなんだろうね。

 

「コンプレックスを刺激されて、得たもの」は、本当に得ているの?

欲しいものを、手に入れている?

そもそも、それ、本当に欲しかったの??

 

「あ~、やっぱり無駄だった!」と認めるのさえ悔しかったりして、

なんとか、価値を見出そうとしちゃったりね( ´∀` )。

 

でもね。それすらもういいかな~。

 

「無駄でいいじゃない!」

「価値を見出さなくたっていいじゃない!」

「失敗だったからって、死ぬわけじゃないし。いいじゃない!」

 

って感じ。

私の人生黒歴史だから、今更どうこうっていうのは、しなくてよいかな~。

 

コンプレックスを刺激されて得たものが、もしすべて無駄だったとしても、それでよいかな~。

 

「いつか役に立つ」とか、そういう言い訳もいらないかな~。

 

失敗だったら失敗でも良いし、価値があったならそれでよいし。

 

それと引き換えたお金、時間、気持ちなどなど諸々が、勿体なかったかな~というと、そうかもしれないし、それすらどうでも良いかな。

 

楽しかったなら、それでよいし。

当時は「勿体ない」と思ってなかったんだったら、それでよいかなって。

 

もし「無駄遣い」だったとしても、それで良いかな。

そもそも、私は人生を「無駄遣い」しているわけで、それも別に悪くないというか。。

 

「私の人生に価値がある」

「私が人(社会)のために役に立っている」

と思いたかったんだろうけれど、それも実際の私を見るとどうかと思うから、もういらないかな。

 

キラキラしてなくても、役に立たなくても、無駄な買い物でも、人生でも、美しくなくても。

「悪いことではない」んだよね。それだって、別に良い。

 

社会的に良しとされているものたちを、コンプレックスを追い立てられるようにして、必死に求める必要性なんて、まったくないんだよね~。

 

そして今思うのは、

 

・言い訳が必要なものは、手に入れないことにする。

・持っていることに言い訳が必要なものは、すべて捨てる。

 

・「自分が欲しいな~、手に入れたいな~」と思うのは、

どんなに高くても、まがい物と思われても手に入れる。

 

「その買い物が失敗」「その時間は無駄」は人に決められるものではなくて、「自分が」決めるもの、感じるものだもの。

欲しいものは、手に入るなら得る。借金はしないけど、節約もしない。本当に自分が欲しいものだったらね。

 

もう「コンプレックスを刺激されて」手に入ると錯覚して、切迫して、何かを引き換えに手に入れるのは、もうおしまい。引退。

『見せるため』のアクセサリーは、もういらない。

社会的なイロイロ(肩書きとか、所属とか)は、今まで『武器、鎧』の類だと思っていたんだけれど、


『アクセサリー』のようなものだな、と思った。



自分が気に入ってつけていたら、それでいいんだよね。


気に入って、ジャラジャラつけたっていいし。

シンプルにしたいときは、つけなくたっていいし。


偽物でも、安物でも、いいじゃないね。

自分が気に入ってたら、それで多分いいんだよ。


『自分が心地よい、気に入ってつけている』ことが大切だと思う。


で、今の私。

結局重たいなって。


つけてる自分=素の自分


って、勘違いしてるのもイタイな。


でね。


全部外すとね、これがまたイタイ。

笑えるくらいイタイ。


お化粧とって、スッピンになると、もっとイタイ。


洋服とって、たまに頑張って補正下着つけていようものなら、

外したらもっとイタイ。


そういうのをつけて、鏡にうつってる自分をみて、

自分だと錯覚していたから。


ほんとは、ひどいものだ。


笑えるくらい、ひどい。


ぜーんぶとったら、


ただのおばさん!笑。

衝撃!!


今まで自分だと思ってた人は幻。

まやかし!!笑。


自分で鏡をみるときって、ちょっとカッコつけてるし。左右逆だし。


気を抜いている、本当の姿は、案外他人の方がよくみてたりするのかもね!


もう、恥さらしちゃってるのだ!!笑笑。


おばさんだと衝撃を受けてるのは、自分だけ!!笑笑。

周知の事実でしょう!認めてなかっただけ!!


自虐でもなんでもなく、本当に、私はおばさん。

これは事実だから、仕方がない。


私の中で

『幸せ=正義』

みたいなところがあったんだけれど、

それも、もう必要ないなーと思えてきた。


『女として美しい=幸せそう』

っていうのがあったんだけれど。これもどうでもいいかな。


無意識に、

『幸せを感じよう、幸せそうにみえるメイク、服装をしよう』ってどこかで思ってたんだよね。


それも、もういらないかな。


別に、幸せそうなのが正義ってわけでもないなー、と思う。


拒否してるわけではなくて。


自分を奮い立たせてまで、

ワクワクしたり、幸せを目指したり、感じたりしなくても、いいんじゃないかな〜。と、思う。


『ステキだな〜』と思われる必要もないかな。 

今まで、思われたい!って思ってたんだよね!!バカ!!イタイな!!笑笑。


『若くて美人』て、スゴく価値があることだよね。

ついつい、それを目指したくもなるんだけれど、

身の程知らずもほどがあるというか。


『楽しめるレベル』でなら良いけれど、

必死になってまでやって、それでも目指す自分にならなくて、自分のダメさにヤキモキするくらいなら、やらなくていいかな。


だって、素がコレですから。

どう頑張ったって限界があるでしょ。

整形はしないでしょ?

年は戻らないでしょ?


だって、このおばさんが、今の人生で一番若いんだよー!!( ゚д゚)

どうあがいたって、それは変わらないのだ!!


社会的な装飾品といい、実際のアクセサリーといい。


もう、全部やめようと思う。

『見せるための装飾品』で着飾るのは、引退!!


社会的な装飾品は、いらない。重たくなるから。


本物のアクセサリーは、気に入ったものだけ。

フェイクでも安物でも、逆に高価過ぎるものでも。好きなものだけ、つけよう。


人の目は、もういいかな。

そういうのは全部引退。


…こうして、おばさんは派手になっていくのかな??(・・?) 

 それも、また、いいのかもしれないね!笑笑

生き恥を晒して生きる。

たぶん、悲しみがなくなることなんて、ないのだろうなー。

抱えたまま、生きるんだろうな。


私は「悲しみが完全になくなる」ことを、たぶん目指していたんだ。

そしたら、ラクになると思ってたんだよね。


頑張ってる生きていれば、いつかなくなるって信じてたんだよねー。


でも、なくなるなんて、たぶんないんじゃないかな。


「癒える」という言葉があるけれど。

これはよくわからない。


ただ、悲しみが「ある」ことがわかっていて、一緒に生きていくんだろうな、という感じがする。


これも私の一部だから、きっと一緒に生きていくんだろう。


慰めながら、生きていくしかないのかな。


今は、それが悲しいというより、「仕方ないよな」と思う。


たまに悲しみが、何かに刺激されて大きくなって辛くなったりもするんだろうけれど、それも「仕方ないよな」と。


楽しいことが続いていて、忘れることもあるかもしれないし、そうしていたらいつか癒えるのかもしれない。


でも、完全になくなりはしないんだろう。


それがあるとしたら、たぶん私が記憶喪失になるか。それでも体は覚えているだろうから、、やっぱりない。


悲しみは常にあって、なかったことにしない。

私に今できるのは、そのくらいのこと。


たぶん、記憶ががーっ!!と蘇って、うわー!!と、憎しみを吐き出したくなるのは、

その奥に悲しみがあるからで。


記憶を思い出したりするのは、ネガテイブな感じはするものの、奥のものにたどり着くまでに必要な過程というか。

それも仕方がない。


これをするたび、私は随分と記憶を喪失しているなー、と思う。

思い出したくないことが、いっぱいなんだろうな。

その憎しみとか、うわー!!という自分の感情が汚すぎて、自分に引く。


でも、そこで終わるとね。

その方がラクだったりする??

泣かなくて済むっていうか。


「私、どうせ汚いから」と、自虐で終わらせた方がラク??

悲しみにフタをできちゃうんだよね。


奥の悲しみに気がつくと、ただおいおい泣くしかないじゃない。

武器も鎧も、何もなくなって。

ただ、泣くしかないんだよね。


おいおい泣いて。


「自立した大人像」のようなものは、なーんにもない。


「自立した大人」には、生きている限りなることはできない。

「生かされている」時点で、「自立」は、ありえないからだ。


どんなにかっこつけても、強がっても、自分の力でない。


生きてること自体が、恥さらしのようなものだ。


泣いて、生き恥を晒して、生きていく。


黒歴史?そんなのばっかり。

恥だらけ。

きっと、この今も恥だらけ。痛い黒歴史。


これも、もう仕方ないんだろうな。


そして、それで良いと思う。


恥さらしで、いいじゃない。

イタイ人生でも、いいじゃない。

失敗人生でも、いいじゃない。


ここに生きているだけで、もういいじゃない。


私の人生、残りどのくらいあるかわからないけれど。

たくさん失敗して、泣いて笑って、生きていけば良いんだと思うよ。


そもそも、成功の定義もよくわからない。


失敗して、黒歴史をたくさん作って、そんなもんでいいんじゃないかな。


棺桶に入った時「たくさん黒歴史作りました!」で良いんじゃないかな。


それも歴史の一つになるなら、イタくても黒くても恥だらけでも、立派な感じすらする笑。


いわゆる立派な人生は立派だけれど、わたしがそれを目指す理由もなければ、素質もないのだ。それだけのこと。


それを隠して生きていくか、

生き恥晒して生きていくか。


隠すのが辛くなった、かと言って死ぬのも違う。

生き恥さらして生きていくしかないな、というのが今の感じ。

私が明らかにするものは『奥の悲しみ』と『生かしてくれる周り』

そう、「生かされて」いる。【と、いうことは??】【つまり、それならば!?】 - 「すみません、ただのオンナに戻ります」。

 

今日も真穂さんのブログから抜粋。


真穂さん、ありがとうございます(号泣)


自分を大切にする=自分を構成している、生かしてくれている周囲をも明らかに見る ってこと

 

傲慢でいなければとても保てない、

その奥の悲しみが、あまりに強いからでしょう?

そこを守ってあげたくて、傲慢にならざるを得ない。

 

でもそのゲームさえも、もう、つらいんでしょう?

全部丸ごと、捨てたいんでしょう?しがらみも、執着も。

 

そこに、あともう一歩だと思う。

イタいけど、進む一歩があると思う。


仕事帰りの電車で真穂さんのブログをみて、電車の中で涙涙。

帰宅後、夕食の支度に玉ねぎを切り、ごまかしながら、涙涙。


夫に話を聞いてもらって、今、ようやく少し落ち着いてきた。

そうです。

私は、傲慢ですが、奥に悲しみがあります。

本丸きた!て感じ。


あと、私を生かしてくれる周りを明らかにみていくこと。


今は、両方同時にできないと思うので。

先に、悲しみの方を見ます。


これは真穂さんのブログを見る前の話で。

昨夜遅く、『不仲だったけれど、お互いぶつかりあって和解した親子』に憧れてる自分に気がついた。

でもね、もうそれは『きっぱり諦めよう』と。『もう会わなくてもいい』と、思った。

そうすることにした。


『夕に感謝』が目に入ったとき、そうはいっても、何に感謝するか具体的に考えようとすると…

よくいう『産んでくれた親を感謝しなさい』に拒否反応というか、強制される感覚があって。

(産んでくれたこと自体には感謝かもしれないけれど、親という人間に感謝はできない)

そして、私が感謝することは『今、この世に生かされてることかな?』だったんだけれど。ぼんやりだった。


真穂さんが、丁寧に丁寧に書いてくれたから。周りをよく見よう。


疲れた。

少し休んで、自分の悲しみから、みて明らかにしていこう。